故意の思考停止

 ここ一週間ぐらい、人狼の影響でblogを全く更新出来なかった。アクセスログを見ていると何故か更新していないのにもかかわらず、アクセス数が変わらなかったので不思議に思っていたら、どうも過去の以下の文言がどこかで今更紹介されてそこからのアクセスが流れてきているらしい。 

 私の中で、秀才と天才の定義の違いは、一次情報を圧縮する精度が高く、こちら側で情報を処理してるのが秀才、一次情報をそのままあちら側処理しているのが天才だ。天才の処理方式は、個としては物凄く有能でも処理機構は一般化出来ないため突然変異として受け継がれることはない。秀才の処理はこちら側で情報が処理されているので、複雑ではあっても一般化する事が可能だ。これは継承して文化とする事が出来る。
「考える事」を考える2

 まなめはうすで紹介された記事のなかで、他の人にタンブラーに登録してもらったりした唯一の記事だ。囲碁なんかをやっていると上記のことは痛感する。それは「囲碁の勉強法について考えてみる」の記事の中でも触れてみた。

 最近写真などをやっていると感じるのだが、おとなになるにつれて、外部からの刺激に対して情報を圧縮して取り入れる処理は自動かされてくるが、意図的にそれをやめることは可能だ。

 いわゆる感性を磨くということは、ラベル付けをやめることじゃないかなと思う。たとえば綺麗だ、美味しい、格好いいなんていう表現をやめてしまうことだ。というか言葉にしないで、わざと思考停止してしまう。自分がどう感じているのだろうと考えて言葉にしないで、脳の中でもやもやとしたそのものを「ソレ」として受け入れてしまうのだ。

 ひとは共通点をみつけて、ひとまとめにしようとする。りんごは赤い、太陽も赤い、本当かな。自分が感じた太陽とりんごは同じものか。それは全然ちがうけれど赤っぽいということ赤に、極端な例だけれど、そうやって似通った昨日と今日は同じような日としてひとくくりにされて平凡な日々といわれる。本当にそうだろうか。

 グローバルという言葉にまどわされて、心の縮尺を大きくしすぎていないかな。もっと日常の縮尺は小さくて、拡大していっても視界が塗りつぶされないぐらい世界は詳細だ。