名も無き雑談

 一緒に居ない方が意識的にコミュニケーションを取る気がする。深度はともかく、人と一緒にいると居ることで膨大な相手からの情報(五感)を受けるので相手と意志疎通出来ている錯覚を起こす。

 確かに対面していることによって得られる情報は多いのだけれど、それは殆どが受ける側の主観が強く発する側は意識していないことも多い。

 例えば、電話やチャットなどの疎通の手段が限られた環境では、意図的に相手に物事を伝えようとする。喋ることで意図的に伝えようとするわけだ。長時間これを繰り返すと、デジタル化された情報でも組み合わせて得られる情報結構多い。

 ネットを使用しない人には、オフ会などでの話をすると非常に気味悪がられる事が多い。本名も少ないのに、会ったことも無いのにという話しになるのだけれど、コミュニケーションの手段の問題であってそれほど無茶苦茶でも無いように思う。

 実際に会っている人間とどれくらいの情報を交換しているかといえば、意識してみると親しい人間以外はそれほどでもないことが分かる。現実世界であまり繋がりが無いからこそ出せる情報というのも結構あるから。

 これは、1週間とかそういう短期の話では当然ない。ただIRCでのチャットでも毎日1時間ぐらい話すことを5年もつづけると馬鹿にならないということだ。そもそも、実際の友人でも学生時代以外は毎日言葉を交わすことがある人間なんて彼女ぐらいではないだろうか。

 ネットを使わない人と話していて一番感じるのは名前信仰である。「名前も知らない人と・・・」と良く言われる。しかし、名前はそれほど何かの担保になるのだろうか。

 昔から名前は大事にされてきたし、名前を付けることで人は初めて認識できるということもあるだろう。ただそれは、名前そのものではなく個体認識したという証明が名前なだけだ。私にとってそれが本名だろうがハンドルだろうが別に構わない。

 AFTERZEROというハンドルとは、かれこれ10年近いつき合いになり、ハンドルからさらにアフロというニックネームがついた。私の友人の中で私のことをアフロと呼ぶ人間はたぶん半分を超えている。人生の直近ほぼ1/3で利用しているのだから当然だろう。多分もう一生使いつける二つ名になっている。

 記憶を頼りに書くのだけれど、たしか「全てがFになる」のなかで、「人の移動コストが一番高く、世界の負担になっている」という言葉を読んだ。インターネットの普及で、リアルタイムの情報交換のコストが限りなく0に近づきつつある。オンラインショッピングしかりチャットしかり。それだけで全ては完結しないけれど色々なものが省かれつつあるように思う。

 それそのものは歓迎すべきだけれど、あくまで劣化した情報もしくはラベルやインデックスのようなものが飛び回っていることを意識しないといけない。風景の写真はその風景その物ではない。テレビもその気配が強かったけれど、インターネットは誤体験をさらに増長する。そういう意味で、あまり早いうちからインターネットに触れるのは危険なのかもしれない。

 私ぐらいの年齢は、そういう意味では物心ついてからそういうものに触れたので一番バランスが良いのかもしれない。もっと上になるとシステムその物に拒否反応がでているし。それ以下はどっぷりすぎる気がある。まぁ今後どうなっていくのか楽しみなところだ。