自分自身に声をかけるように

 今日は、知り合いのWEBサイト立ち上げの為の人を紹介と、話し合いに立ち会いをしてきた。つてだけつけて放置しようと思ったのだけれど、双方から最初だけ立ち会ってくださいという事を言われたので。

 最初は、話し合いにはノータッチで過ごすつもりだった。喫茶店で話し合いが勧められていくうちに、悪い癖でついつい口を出してしまう。おとなしいよい子でいるつもりだったのだけれど。

 相手に話をしていたのだけれど、本心で言えば自分自身のやり方を見直すことに等しくなった。他人の穴をつくのは本当に簡単だなぁと思う。自分がやらないならば。

 と言うよりも、自分も含めてだけれど陥る罠は大体同じだということだね。幸いにも自分にも嵌った経験があったので色々とそれを含めて話をしてみた。多分頭の良いやつだから、自分でも薄々気がついていただろうし痛いところだったろうと思う。ただ口に出されて分かることも多々あるように思う。周りが無気力気味で動いている環境の中で、芯を持って物事を押し通すのは本当に難しいと思う。

 人を動かすということは正しさではなく、相手を理解するということだ。自分自身だけでは出来る事は限られる。そして、周りを動かせる事というのは包括的にいえば顧客にとって魅力的だという事だと思う。一番身近な人間の同意を得られないもので一般大衆は動かせない。

 忙しくなると、行為そのものが目的になってしまって、目の前に追われだす。それを避けるために自分の行動の芯をしっかり定めるべきだと思う。行為に意味を持たせるためには、明確な目的意識が必要で、それに基づいて事の成否を決めないといけない。

 今自分が求める結果は何で、一体何を得て何を得なかったのか、成功することもだけれど、動くことによって様々な事の可否が形となって現れる。自分の予想はしばしば不確実で、自分が出来ると思っていた事が出来ないのと同じぐらい、自分が出来ないと思っていることで出来ることは多い。

 机上の空論に、血を通わすのは試行錯誤なのだということを自分自身にももう一度言いたい。似たような状況に置かれている知り合いを見て、彼を通して自分自身を客観視して自分自身が何をするべきかもう一度考えさせられる時間だったように思う。私にとっては有意義な時間になった。彼らにもそうであればよいのだけれど。

 先日の「考えることを考える」のエントリーでも少し触れたけれど、私は考えることの意味を少し取り違えていて、悩むことが考えることだと思っていた。問題に対して、どれだけの案をだして何を持ってその案を却下するのか、その筋道を果たして今まで立てていただろうか。来年はもっと「行動的な思考」に取り組めたらと思う。

 サイクスに以前いわれた、思いついたらやれという言葉の本当の意味をつかみかけた気がする。考えるということはもっと実践的で泥臭いものなんだろう。ポーズじゃなく色々なことに取り組めるようになれば、また違う世界が見える気がする。そして私はその世界を見てみたい。