自分と向き合う

 今年というかここ数年の総括。今年はここ数年内でもっとも充実した一年だったように思う。今までやってきたことの芽が少しずつ出てきた年でもあった。

 この5年ぐらいは、本当にモチベーションの低い期間だったと思う。実際blogなんかの記事を見て、本当にダークサイドだなぁと良く言われていた。

 何に向かって自分を動かすか、それは本当に難しい。自分のやりたいこと、生きる意義とかそんな感じのことを考え続けると今の自分に対して本当に憂鬱になってしまう。それは、離婚という現実的な事象が生み出したと思っている人も多いと思うけれど、むしろ結婚でそれほど私のモチベーションが上がらなかったという方が真実だ。

 決して結婚に対していい加減だったりしたわけでは無い、ただそのシステムそれ自体は私のモチベーションの元にはなりえなかったということだろう。結婚して離婚したことを後悔する気はない、それは自分にとっては貴重な体験で決して卑下するものでも何でもない。事実は事実にしか過ぎず、自分がそのことを、どうこれから取り扱っていくかが問題になるだけだろう。

 結婚を機に今の職場に移った。それは結婚生活にはお金が必要だったという理由もあったし、あのぬるま湯の生活から抜け出して自分を変えたかったということだろう。結局の所、環境を変えただけでそうそう都合良く意識が変わるわけもなく元の木阿弥になってしまうのだけれど。

 そのころは本当に色々な事から逃げ出したくて仕方がなかった。仕事にしろ人間関係にしろ色々と面倒くさいことから離れて、リセットしたらまたやり直せるとか馬鹿なことを思っていたように思う。それが表層的か本質的だったのかは今からは分からないが、そう思う一方で職場を変えた事によって何も変わらなかった現実を忘れられるほど私は自分に対して嘘をつけなかった。

 社長に呼び出されて、お前の給料を半分にするよと言われたとき、特に驚きもしなかったし出てきた言葉は分かりましたという言葉だけだった。実際多分、その時の自分の価値はそんなものだろうという感じがあったから。自分自身に甘えて落ちていく自分を客観的に見据えると、別に何か食べられたらそれで良いかなというとろけた考えもあった。

 私にとっての最大の幸せは、周りはまだ何かを私に期待して待っていてくれたことだろう。昔から延々と背負い続けてきた「あなたはきっとできるはずだからやりなさい」という良くわからない念は、ずっと自分にとっては重荷だったのだけれど、最近やっとそれを背負える有り難さを知った。

 私は本当に良く泣く、仕事でもそうだし恋愛でもなんでも。自分自身をみると悲しくなるのだ。怒られる自分が恥ずかしい。悔しさとは違う気恥ずかしさが泣く原因なのだろうか。うちの社長にはかなり厳しく怒られている。瞬間湯沸かし機で理不尽な怒りもあるが、本質的に正しく怒られている気がする。恐れながらもその前向きな姿勢が私は好きなのだろう。「おまえはもっと前向きにならないと駄目だ」と何度もしかられている。この仕事に変わって3年目、さすがに延々といわれていると少しずつでも変化はでてくるようだ。以前よりは後ろ向きな思想は減ったように思う。

 今までは一晩寝ると激減していたモチベーションを、ここ数ヶ月で結構な高さまで上げられたような気がする。それは今ここで簡単に生まれたわけではなく、碁会や会社、色々な場で色々な人に会って何かを少しずつ分けて貰っていたのだろう。以前に比べると自分を変化させることに能動的になってきている。常に正しく変化し続けられる保証は無いけれど、少なくとも変わり続けることで何かを学ぶことは出来る。

 一つこのblogも自分のもやもやを文章という形で外に出すことによって、「王様の耳はロバの耳」と叫んだ洞穴のような役目を果たしてくれたように思う。それぐらい何かを形にしていくことは有意義な事なのだ。自分が常に新鮮な自分であるためには、何かを創造し続ける必要があると感じた。それは良いものを作ろうとかそういう高尚なものではなくて、その時の欲求をいかに形にしたか、そこが多分重要なのだろう。

 自分の思いと、自分が形に出来ることの差異を知ることは本当に重要だ。以前サイクスに読んでみてといわれたテキストのなかにこんな件があった。「コンピューターはアウトプットするために過程を創造する。人は逆でアウトプットをすることで過程を創造する」この言葉の重みを最近ひしひしと感じている。