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 つきあい始める前から、blogを読まれていたわけです。楽の一端はそこにあるのかもしれません。

 どちらかといえば赤裸々に書いてる方だと思うので、私という人間を知ってもらうには便利な代物です。何せ個人宛の情報ではなく、見ている人は少ないとはいえ開かれた情報ですから。

 何だかんだ言っても、1年も書き続けると人格を誤魔化そうとしても文章に整合性がなくなります。というか明らかに普段より浮いている文章というのは、読む人がみれば分かるものでしょう。

 今となっては想像にしかなりませんが、多分元嫁がこのblogを読んでいれば私と最初からつき合っていることは無かったのでは無いかなぁと思います。そもそも、blog自体は結婚をする前からあったのですが、ついに最後までその存在を伝えることはありませんでした。

 知り合いの中には、ネットなんて実際に顔を合わせることもしないし、訳が分からないから怖いよと言う人もいます。それは伝達手段よりもコミニュケーションの取り方の違いだと思います。

 実際合うよりも電話、電話よりもチャットの方が確かに受け取る情報量は減ります。ただ、実際普段会っている友達とどれほど自分たちについての情報を共有しているでしょうか。カラオケや飲み会、はたまたイベントなどに行くことは、その場にいた時間を共有している意味の方が強いと思うのです。まぁそうした感覚的な時間の共有が安心感やシンパシーを生み出すのかもしれませんが。

 「どこに住んでいるどんな名前のひとかも分からないんでしょう?」とも言われますが、そういう情報よりもどういう考えを持って、どういう風に生きているかのほうが私にとっては個人を知る上でコアで信頼できる情報だと思うのです。その辺の感覚は周りとはかなりずれているかもしれません。

 実際のところ、つき合うと決まった段階で私は相手の本名を知らなかったわけです。そして、そのことについて別にまぁ良いかと思っている自分が居ます。結局そりゃぁおかしいだろと周りに言われたので後から聞きましたが。(正確には名前は知っていたけど名字を知らなかった)

 私としては、名前や住所を晒す以上に、このblogは個人情報を漏洩しまくっていると思うのですがいかがでしょうか。そして、そういった内面を晒す意味は私にとって何なのか。

 それは、端的にいって人が好きだからです。人の話を聞いてみたいと思うからです。話をしてもらうためには、相手に話しても良い相手だと判断してもらう必要があります。そこが信用だったり信頼だったりするわけです。会う人会う人にいちいち話をしても良いのですが、出会う機会は大抵貴重ですし、まさか個人個人にメールするわけにもいきません。

 最近の新しい人との出会いは、webを利用することも多いので先にこういうものの存在が知られていれば、色々な話もしやすいということなのです。以前にも書いたとおり、自分の文章能力の育成や思考のまとめにも使えて非常に有意義に使えているんじゃないかと勝手に思っています。