怒り

 怒っている姿が想像できないと言われる。確かにそうかもしれない。

 以前にも書いた通り、喜怒哀楽のうち怒は明らかにバランス的に少ない。むしろ怒らないと言うより鎮火が著しく早いだけなのだけれど。衝動的な感情があまり無いのかもしれない。

 怒りを抑えることはストレスかと聞かれると、それはもう身に染みついたことであり自分的には問題ない。しかし、表に出ていることと実際に怒らないこととは全く別次元の問題だ。ということは怒りが即座に引くのは、一瞬にして怒り成分が私の中で変換されるということである。

 ここで少し話を横に逸らして、人というものに対する考え方に少し触れてみたい。私は長所と短所の差し引きで人とのつき合いを決めようとは思わない。簡単に数値化出きる話ではないが、モデルをしめすと、長所が30短所が40の人間と、長所が12、短所が10の人間であれば前者により強い興味を抱く。

 状況や考え方一つで短所を0にもできるし長所を0にもできると思っている。ようは短所が見えないつき合い方をすれば良いだけの話だとおもう。自分の能力によって相手の長所と短所の絶対量は変化させることは普通できない。しかし、もとある絶対量をどう取り扱うかはこちらの問題だ。

 話を戻して、普通他人に向けられる怒りは短所に起因することが多い。しかし、短所を怒りによってことさら取り上げることは、正直なところ自分にとって有意義だとは思えないのだ。

 怒ることは、大抵自分に受けた負のエネルギーをそのまま相手に返すことだ。ただ、大抵の場合相手は自分の短所に関して鷹揚にして無自覚なことが多い。ということは怒りによって受ける負の印象は自分が送った負のエネルギーが帰ってきたものではなく、怒った相手から沸いてきたようなものに見える。

 当然自覚は無いので、更にその負のエネルギーを相手に押し返そうとする。これによって非生産的な押し付け合いが始まる。私にとってそれは、かなり面倒なことなので別の場所に捨ててしまおうという話である。

 本当に建設的なケースというのは、相手に与えた負のエネルギーを自覚的に正のエネルギーとして自分自身で回収してくれることだ。これをできる人間を私はとても尊敬する。これは別に不可能な話ではない。一般的にビジネスでも良く言われる「クレームはチャンス」というスタンスのことだ。実際のところ、「負」といっているがそれは一面的な見方でエネルギーの大きさとしては貴重なものだと思う。それの方向を変えてやることは、そのエネルギー自体を生み出すよりもよっぽど簡単なのだ。

 そういった人とのコミュニケーションに置いて、怒りは一番原始的な反応であるとも言える。受けた印象を加工せず相手に送り返す。これは加工されていない分受け手の技量によって正負が決まる。もう少し受け手が熟達すると、それは諫言であったり忠告になったりもするし、人によってはそのエネルギーを返さず軽蔑という形で昇華してしまう。

 では実際、自分の心情としてどうしたものに置き換えられているのか少し考えてみた。自分に対する評価を正負関わりなく取り入れようとしている人には、できるだけ分かりやすい形にして送り返すようにしている。そういう気がない人で、私が魅力的に感じている人ならば、その情報からその部分に関わらなくて良い方策を考え、感情自体は処理しづらい場合は長所と相殺する事もある。そうでもないなら、そういう人だと割り切ってしまう。

 割り切りというのは、ある種見下しに近いかもしれない。成人に涎のついた手で触られると腹が立つだろうが、赤ちゃんならその矛先を赤ちゃんに向ける人は居ない。そういうことである。相手を対等と見ないことで、怒りを昇華するのである。

 とまぁ、こんな考えをもうちょっとおおざっぱにつらつらと喋ったら「寒いなぁ」という感想を頂いた。というかこういうネタばらしは人間関係に置いて非常にリスキーなんだけれど、まぁそれはそれで良いかなぁという感じで。まぁ心のどこかで喋っても大丈夫だろうと思っているからこそなのだけれど。

 「おれはそういう人を見下してるのかもしれない」という会話を自分でしていて、ああ他人事のようにしゃべっているなぁと思う。Psychsにも以前そんなことを言われた。俯瞰視点なんていらんのじゃないのかと。まぁでもやっぱり私はこういう人間なんだろう。自分の感情部分と、理論部分の乖離を激しく観じるこのごろ。