リスペクトとならけん

 台風で大丈夫かと思いながらならけん参加。今回は大学時代の知り合い懐かしい顔が二人。今回は少し顔ぶれがちがっていつもと違う雰囲気。レギュラーメンバーが全国大会や用事で研究会には不参加だった。

 懐かしい顔の片方は私が懐かしかっただけで相手は全く覚えていませんでした。残念。というか電話番号交換して何回か連絡とって研究会さそわれたりしてたのになんでだ。

 それはさておき、ぴょんちゃんと私が喋ってる姿を見て不思議に思われた人としゃべっていて、私が「ぴょんちゃんを囲碁の師匠とは思ってないから」という話をしたら「それって失礼じゃないですか」と言われてしまった。

 まぁメリハリの問題もあるがやっぱりそうなのかなぁと少し思う。ため口はさすがに問題なのかもしれないな。

 私にとってぴょんちゃんは囲碁を通じて知り合った。学生時代に知り合ってそのころはそれほど親しくは無かったのだけれど、関西で久々に再開して電話番号を交換して、そのあと京都にぴょんちゃんが来たときに飲みに行かないかという声をかけられてからの親しいつきあいだ。

 出会いも囲碁だし、ぴょんちゃんはプロ棋士で私も碁打ち。だから当然先生と言うべきかもしれない。でもやっぱりぴょんちゃんは私にとって友達で職業がプロ棋士にしかすぎない。碁というゾーンに関しては完全に尊敬しているし凄いと思う。でもやっぱり本流は囲碁じゃなくて友達なのかもしれない。プロ棋士と割り切って接するには親しくなりすぎた。

 そのあたりの切り分けは難しいのかもしれない。たとえば私はパソコン関係に関してはそこそこ分かるし周りが困っていれば手伝いもする。それとあんま変わらないんじゃ無いというのは言い過ぎなのかな。

 それぞれ、色々な得意分野があってそこでお世話になれば「ありがとう」と言えればそれでいい気がする。まぁでも関係に色々甘え過ぎなのかもしれない、もう少しTPOを考えた方がいいかもしれないな。でもならけんはプライベート空間であんまりそういう場所とは思ってないけれど。

 話はうってかわって自分のはなし。ならけんに行くと自分の碁が全く分からなくなる。異次元で打ってる感じ。だから研究会の成績はさんざんだ。レベルの高い低いじゃなく、今の延長上に上級者がいないことを痛感する。

 今回4局うって、1局は置かせる碁、これはまぁ最後に負けたけれど別に何かを失ったわけじゃない。間の2局は互い先、ボブくんやIくんと打つとなんか自分の碁をうまく打てない。なにか他人事のような碁。とても恥ずかしい内容の碁をうって凹む。

 仕事の関係で、変えろうと思ったところ、先述の懐かしいかた(忘れられてたけど)が一局やりませんかとおっしゃったので2子で教えて頂く。最後だし、久しぶりでならけんメンツではなかったこともあってぐんと集中力が増す。

 相手が私の実力(華麗なまけっぷり)を知らないせいか分かりやすい展開になって、ある意味盛り上がりのないまま手厚く終盤を迎えて順当に残った。ぴょんちゃんに「おまえらしくない手が多くて見せ場がなくてつまらない」と冗談交じりに言われる。ギャラリーもそう思っていたらしい。

 というか検討もまともにしてもらえないぐらい良い碁だったようだ。うれしいような、なんか検討で色々ないと拍子抜けしていまう。相手にも「勝った碁並べても仕方がないでしょう」と言われる始末。私にとっては勝ち負けより集中出来た碁の検討はある程度やりたいのだけれど残念。

 ならけんに来て思うのは、ヨメルとかそういう問題じゃなくて囲碁に対する考え方の根本的なパラダイム変換が起こらないと今のままじゃ強くなれないということ。何故そう思うかと言えば、自分で自分が作った図が悪いかどうかの判断が全くまともに出来ないから。

 良いと思う図がつくれないのと、良い図が分からないのでは天と地ほどの違いがある。結局の所、善悪の判断基準そのものが危ういということ。いくら図を想定してもその判断ができないのでどうしようもない。

 だから、ならけんで打つときは常に別天地にいるよう。自分の善悪の判断基準がまったく通用しないのだもの。だから宇宙に行って上下が分からない感じ。そこが一番の問題かなぁと思う。1年たてば少しは何かが変わるのだろうか。センスないな。残念。