遠い音楽

 ::HIRAX.NET::で次のような話を拾い読み。

 民族音楽は、土地に根付く植物みたいなものだと思う。 大地に息づく草や木は、その芽を育んだ水や土や空気から離れて存在できるものではないのと同じように、民族音楽も、生まれ育った場所から切り取って、他の土地に持っていくことはできないだろう?もしも、他の場所へ持って行った時には、フリーズドライされたインスタント食品みたいなモノに変わってしまうんじゃないだろうか。

世界の何処かで響く音

 これは大いに納得は出来る部分もある。しかし私は、べつにipod民族音楽を聴くことは否定しない。ただ怖いのはフリーズドライされたインスタント食品だと自覚しているかどうかだけだ。

 音楽に限らず、酒や食事、言葉などは生活様式に密接しているものだ。その中で味わうことが一番それらを楽しめるのだと思う。実際に生活してみることと、旅行などで体験したことでも情報の深度は違うだろうけれどそれは仕方がないことだ。

 一度、それらをどのような形にしろ体感すると、少々劣化した刺激であってもそれを呼び水に思い出すことが出来る。劣化した情報だけを知っている人間はそれによって感動は受けないかもしれない、けれど原風景を知っている人間には十分な情報かもしれないのだ。

 当たり前の話だけれど、生は何でも心地よい。音楽といえど音だけでなく、視覚や嗅覚やもしかしたら触覚でも愉しんでいるのかもしれない。そうした体験は素晴らしいけれど普通はそう何度もあるものではない。だからこそ自分の体験を思い出すスイッチとしてipodなどを利用すれば良いと思う。

 残念なことに、この世にあることは多すぎる。全てを原体験として経験することは不可能だ。だから逆説的に原体験のサムネイルとしてそういった物を利用する場合もある。そして、あふれかえるサムネイルを見て、想像から原体験を追いかけることになる。ただサムネイルから想像していたものと原体験が一致することは殆どないのだろうけれど。

 にもかかわらず、人はなぜかサムネイルで全てを知った気になる。そして、それが本質として語られてしまう。そう考えると、原体験をした人間が語ったとしても言葉によって劣化するのだ、劣化した情報を取り入れて、さらに言語化によって劣化した情報にどれほどの価値があるのだろう。むしろもはや別物といっても過言では無いだろう。

 そう考えると、WEB上の情報の殆どは、原型をとどめない情報のサムネイルなのでは無いだろうかとふと思う。