老後のあれこれ

 年金とか保険の問題について前に触れたらジョニに「珍しく半径10mを越えたな」と言われた。実はそうでもない。自分の親は世代的には祖父世代にあたる、親父が42歳の子なのでもう70代だ。

 大学を卒業した時点で、親はもう60を越えていたし就職は岩手や東京などでする気は無かった。一応本家の長男というかすかな自覚があったから。両親ともに今はまだ元気にしているが、何時どうなるかわからない。母親も最近は膝の調子が悪いと言っているし。

 別に私事はどうでもいいといえば良いのだけれど、コムスンの話題が最近よく上がっているが介護は真っ当にやれば、本当に商売にならないだろう。

 介護が必要ということは自分ではほぼ何も出来ない状態だということだ。収入という意味で見込めない世代が、自分自身と世話をする人両方にかかる経費を払える訳がないのだ。健常状態であっても自分一人を養うのが大変だというのに。

 現場はもっと大変だろう、労働の質に対して対価は全く釣り合わないだろう。そもそもは家庭というコミュニティの互助で介護は賄わなければ成立しがたい。感情移入しにくい商売という金銭の間柄で介護という仕事は無理だ。核家族化が進む現在の社会情勢で現実的な話の介護は破綻している。

 これが国の施策のせいだと騒いでみても、元々その元凶をつくったのが今まさに介護される世代にはいる人達では無いかと思う。結局の所社会全体の空気の問題なのだ。

 まぁそんなことを言っても仕方がないのだけれど、これから自分が介護をする立場になったとして生活を存続していけるのかは非常に疑問だ。

 一家という生活単位は、所帯では賄いきれない世代間の互助としてどうしても必要であったように思う。行きすぎたより個人主義に近い思想は村社会を家社会に家社会を所帯に所帯を個人にまで圧縮してしまった。結局これによって自分自身を守ってくれるのは自分だけという非常に悲しい結末を迎える。

 年金にしたって「私たちはちゃんともらえるのか」という事にばかり目が向き「税金で保証しろ」などの話も全て個人の話。システム全体として今後破綻に向いていることを自覚して切り替えをしていかないと意味がない。財源はどんな形にしろ自分たちが払った税金なのだから税金から補填しろとかいうのは本当に本末転倒も甚だしい。

 囚人のジレンマ的に、個人の裏切り的行為を選択する状況に本当に向かっていると思う。短絡的な損得でのみ事をはかることが一番良いという考え方は最終的に社会全体を縮小させることは自明なのに。

 確かに自分が思うようになる間は、自分が本来持ち得る時間、金銭等の財産は最大限に自分に投資され効率的であろう。それがひとたび社会的弱者に転落した時点で取り返しのつかない事になる。まぁ当たり前の話。

 ある意味自分の今の生活態度に対する自戒のエントリなのだけれど蓋をするにはあまりにも臭すぎる話題だと思う。

 何が言いたいのか、まとまりづらい文章になった。私としては、今の社会全体的な風潮が、好きでないというそれだけの事なのかもしれない。インターネットの普及などのIT革命で本来あった社会の殻が壊れ始めたのだという事なのだろう。古い時代の牧歌的風景画好きな自分の単なる時代についていけない懐古主義なのかもしれない。

 まぁ自分自身が好きに生きたい気持ちと、自分の中で切り捨てられない物のはざまで中途半端に日々を暮らしているという自覚はある。しがらみをある程度ばっさり切り捨てて生きている人へのうらやみと、守りきって旧来的な物を守り通している人達への憧憬なのだ。