青臭い

 身近なモノの愛おしさを再確認する。言葉では「当たり前のありがたさ」を詠いながら、知っているだけで分かっていなかったことが、なにかとつながったようで心にあふれる。

 繰り返される日常が、本当に延々続くような気がしていた。毎日の微々たる変化の積み重ねに敏感になってきているのだろうか、一期一会という言葉の意味を重く感じる。

 「また、次がある」本当の意味で同じ次は無い。一回目と二回目は似て非なるもの。

 ボブが逝ってから、ちょうど一年ぐらいになる。去年のGW明け、彼女は旅立った。親の配慮で私は亡骸を見ることは無かった。何かがあれば、軒先に座って話しかけていたのが遠い昔のようだ。

 残されるものにとって、いきなりの別れと、残された時間を宣告されてわかれること、どちらが幸せなのだろう。逝ってしまうことを現実として受け入れて、また逝ったことを受け入れなければならない。小説で他人事の用に読んだそのフレーズが頭をよぎる。

 小さい頃に、寝る前に死ぬことについて考えると、いつも怖くて眠れなくなった。自分が土に戻る日、それは必ず来るのだけれど、自分はどんな気持ちでその日を迎えるのだろうか。

 「○○(私)みたいに青臭い考えだな」とあるところで言われた。ああ、そうか他から見ると私は青臭いんだなと、何か笑えてきた。

 確かに、昔と比べると今の方が考えが青臭いかもしれない。昔は簡単に切り捨てられたものが、今は捨てられないのだ。

 しがらみだろうか。しかし、それを切り捨てる事をしようとは思わない。そのしがらみこそが、自分自身なのだから。

 以前、お客様の発行されている冊子で、「凧は、この糸さえ無ければ、もっと高くまで飛べるのにと思っている。しかし、糸が切れれば凧は地上に落ちる」という話しが載っていた。以前のブログでも触れたかもしれない。

 しがらみは動機を生み出す。しがらみという糸が本当に無くなってしまえば、人は自分を保つことが本当に出来るだろうか。人間が環境動物である以上、しがらみは必要なのだろう。