ROR戦記

書き始めるに当たって

 私がRORを始めたのは1998年の9月ぐらいで、もうすでに4年以上の歳月がたってしまった。あの当時から現在までほぼ現役のままRORを続けてきているのは、たぶん私ぐらいのものであろう。周りから一度年表というか歴史のようなものをまとめてみないか?という話もちょろちょろ出ているので、どこまで思い出せるか分からないが私なりのROR戦記を書いて今までのRORへの総括としてみたいと思う。記憶違い、もともとの勘違い、主観による意見の違いなどもあると思うが関係者各位はご容赦願いたい。

序章 〜大学内部時代〜

 1998年の9月当時、私は大学院の試験を終え本来ならば卒業論文に集中して取りかかるべき時期であった。当時私たちの研究室には情報工学科という事もありたくさんのPCがあり、なおかつ自由に使う事ができた。また当時家庭では決して得られない高速回線を用いたファイアーウォールも何もない自由な環境でグローバルアドレスをもってインターネットを使用できるすばらしい環境であった。私は生粋のゲーマーではなく当時ゲームセンターなどに友達といっては人のプレイを延々と見ている側の人間であった。その当時ある雑誌でウルティマオンラインの特集が組まれているのをみて大勢の人間が同時にRPGをするというその内容にあこがれ、手に入れようとしたが、当時はUOはかなり岩手の片田舎では手に入れるのが難しい状況であった。そんななか近くのPCショップで同じ雑誌に載っていたディアブロを発見し、友達とお金を出し合って買って半年ぐらいやりまくる日々での事だった。ある日、他の研究室の先輩が見たことのないゲームをやってるのを見かけた。当時ディアブロは所詮COM対戦でアイテム集めにあまり興味がない私は飽き始めた頃だった。その先輩がやっていたのがRORのβ版であった。対戦に興味があった私はすぐさまそのソフトをもらい研究室の仲間とやり始めた・・・・

第1章 〜大学内部時代2〜

 まだ、今と違いなにも情報のない時代であった。最初は文明の違いすら把握することができなかった。一番最初のプレイは2時間半延々と戦い続け最後には象徴をたてて終わった。そのとき友達が出していた象がなぜ自分が出せないのかそれだけが謎だったのが印象深い。そのころ大学の先輩達が6人でよく3v3をやっているのを見ていた自分の同級生は私が持ち帰って横並びのスタートだった。一番最初に進化するときに友達とファーストイチゴだけで進化するかセカンドイチゴもつかって進化するかその事でもめていたのが懐かしい。12人進化でのRORスタートであった。マシンもまだMMXの200で解像度800x600で音無というスゴイ環境でゲームをしていた。当時は夕方から朝まで延々と最強COMと4v4をして特訓した。誰か一人をおとりにして他が生きる、などのCOMのチート進化に対抗する手段を夜な夜なあつく語り合った。2週間ぐらいでCOMには勝てるようになった私達はついに先輩達に挑む事にした。
 最初は4v4で挑んでいたのだがあまりにもレベル差があるため勝負にならないため、混合チームで当分戦うはめになる。その当時私は20人で青銅20分入りという今から思うと何とも情けない進化であった。先輩に20分に投石機を出されるとそれだけで、この時間に投石機がくるなんて奇跡だとか思ってた時代であった。その当時は漁船の魚の字もしらず船を使うということは概念になかった。そのころは知らなかったのだが一部の先輩はそのころもうIRCに進出していた、古参の方はご存じかもしれないがその当時ではかなり大きめのローカルチャンネル#天国であった。しかし、そのころはまだ私達はIRCなど知るよしもなく研究室間でIPメッセンジャーを使って反省会をしていた。先輩達との交流戦を繰り返す中、先輩のプレイを羽織って研究をしていたが進化の差は歴然であり、チームの中で私は裏ARをする事を命として戦っていた。当時の私なりのチームへの貢献を考えた戦術ではあったが、やられた方には不評でまくりで「そういうつまんないまねはやめとけ」とよく先輩にしかられたりもした。その当時は内政力も当然なく、ヘレーネ(マケドニア)の歩兵1体や原始3体が自陣にくると全滅するような今から思うと考えられないぐらいへぼかった。

第2章 〜#天国時代〜

 それからしばらくして、IPメッセンジャーでは反省会がやりにくいために、IRCを使用したことのある先輩がmurichatをみんなに配り、IRCで学内の反省会をやるようになった。そんなある日、先輩達がネット越しで知り合った相手にRORで対戦するという話を聞きみんなで観戦にいった。3v5のハンデ戦で3側は#天国のメンバー文明は朝鮮、カルタゴ、パルミュラであった。実際3v5でも先輩達は全く歯がたたず3国に為すすべもなく殺されていった。当時先輩が絶対的な壁であった私たちにはまさに無限の資源で攻めてくるように思えた。そこで私は「こりゃー外にでて武者修行すれば先輩にかてるなへへへ」と思いIRCの大海原にでて修行の旅に出ることを決意する。それが私のIRCデビューのきっかけである。
 その当時私はZEROという漫画にはまっておりゲーム名はすべてZEROで通していた。しかし、IRCではあまりにもZEROは多すぎるために当時別に読んでいたAFTER_0という漫画と混合させてAFTERZEROというハンドルネームにする事にした。当時の#天国ではtokka-taが常駐している中では最強といわれていた。すでに第一次AOEブームは終わりTAITAIやメルチナ、時雨はHPでは神扱いになっていた。だれしも最初は経験があると思うが、ゲームも弱いチャットもしたことがない、周りに知り合いもいない、この状態で一人でIRCのローカルチャンネルにいるのはかなりのストレスを要する。自分が弱いのは自覚しているがゆえにIPが出されてもゲームにもなかなか入りづらい状態であった。そんな中フォートラン90とはなす機会をたまたまもてて、それから弱いながらも今からは考えられないぐらい殊勝な態度で「すいません。すごく弱いんですがゲーム入れてもらってもよろしいでしょうか?」と断りながら#天国でしばらくゲームをしていた。当時やはり実力差がありすぎて入ったゲームで何かできることがほぼなかった、つまり即死確定の記憶がある。その当時フォトランなどに声をかけてもらってすごくうれしかった経験から、IRC初心者の人にはできるだけ丁寧に対応すると心にきめた。初めて勇気を出してした発言が流れると本当に悲しい気分になるということをこのころ身をもって知ったからだ。しかし#天国にはそんなに長くいることはなかった。まだ学内戦の方がメインでもあったし、やはり弱すぎる自分はバランスを壊しているというのと身内の会話はやはり入りづらいというのがあった。
 そんな中私は初めてパブリックチャンネルの存在を知ることになる。それが#monmoriであった。ゲーム数は絶対的にもんもりの方が多かったので私はそこでゲームをすることにする。このころβから製品版へバージョンがあがる。いま重装戦車兵を鎌というのはβ版は英語版しかなく日本語化.dllを誰かが自作したらしいのだがそこでの和訳が大鎌戦車兵という訳になっていた名残である。またヘレーネ>マケドニアと名前も変わった。これが1998年11月の事である。

第3章 〜#monmori時代〜

 私のことを語る前に時代背景を少し、私が#monmoriにきたときはもんもり最盛期の頃であった。当時名実とも最強といわれていたTAITAIが引退するかしないか、という時代であった。当時TAITAIはほぼ無条件に頼めば羽織らしてくれた。しかし、そのために無責任に物珍しさから羽織らせろといって断られると逆切れする輩やまた羽織らしても成果が少ない事がおおく、TAITAI自身もすこし嫌気がさしていたのではないだろうか。この当時海進化を使用するのはまだTAITAIだけの時代であった。AOE>RORに移ったことにより水にいる魚の量が激増したのが変化のきっかけであった。当時AOE式の陸進化が主流な中積極的に水を使うTAITAIの進化は革新的なものであった。当時のスタンダードは30人18分青銅船なしというのがほとんどであった。そんな中50人18分という圧倒的な内政力を武器に戦うのがTAITAI式といわれるものであった。今では18分というのはあり得ない数字であるが●他に水を使う人がいない ●そもそも青銅の平均タイムが遅い という2点の理由によりその進化は十分実践で通用するレベルであった。そんな中TAITAIのHPでTAITAIランクの提唱というのがありそれなりに普及し、強さの目安にはなった。当然ランクなんてという反対するひともたくさんいたが・・・TAITAIランクは1〜9に別れ当時9といわれた4強はFa-ren、TAITAI、GOM、MILであった。当時のTAITAIは一緒にゲームをすると道具を押す段階ですでになぜか周りと2倍の点数差が常につくという状態でまさに神にふさわしいぐらいの実力差があった。(今から考えると常に最大の農民、最大の開拓をとるとそうなる)
 この当時の私の話にもどすと、初めてもんもりに行った私はそのゲーム数の多さに驚きへぼいながらも自分なりにゲームを続けていったが所詮はまだ頭を使わずにただ漫然とゲーム数をこなすだけな日々だったので勝つことはできなかった。そんなある日、忘れもしない1999年1月15日私のRORを変える出来事が起こる。その日私はセンター試験で大学が立ち入り禁止であるにも関わらず研究室に忍び込み、RORを見回りのめをかいくぐりながらやっていた。そのときたまたまTAITAIがIRCにあがってきたので、自分の不振に悩んでいた私は思いきってTAITAIに「すいませんよろしければ羽織らせていただけないでしょうか?」といってお願いしてみた。すると「いいですよ」の快諾をいただき小躍りしながらゲームを干した記憶が鮮明に残っている。そのころまだ私はTAITAIはスゴイとは聞いていたが実際に一緒にプレイしたこともなく、ただ噂のみを聞いていたのみであった。しかしここで見せてもらった事は本当にショックな出来事であった。当時まだ24人18分進化で鉄にすら入ることすらほとんどなかった私にMAP大でvsCOM戦を見せてくれたのだが50人で17分に青銅に入られてこの人は何をしてるんだろう?と本当に思った。全く世界が違うものを見たという気分であった。17分50人だけでもスゴイのに23分でリミット28分には鉄というその流れを見せられその圧倒的な資源量の差にただただ目を見張るばかりであった。それにあまりにもショックを受けた私は「どうしたらそんな風にできるんですか?」と質問した、すると「一度みてあげましょうか?」といわれ自分の情けない進化を見せた。ひとこと「話になりませんね」とばっさりいわれ、まぁそらそうだろうなぁと一人で納得した。「悪いところが多すぎて言い切れないので一度私の言うとおりにしてください。h2hをしてみましょう」と言われ二つ返事でお願いしてh2hすることになった。その相手がshun_7upでした。当時レベル7の強者でした。そして、私はTAITAIの言うとおりの動きをして40人18分進化というものを体で実感しました。このときの驚きに勝ることはそれから先一度もなかった。 それから驚きを胸に次の日私は同級生にその事を話し、海進化をヤロウ!!といってその特訓をした。やはり、知っていてもおいそれとまねできる物でもなかったが少なくとももんもりで何とか戦えるレベルまでの腕の引き上げのきっかけにはなった。余談だがh2hで対決した後、TAITAIさんにまた教えてくださいというと。もうあんまりそういう気力がないのでshun_7upさんも強いから彼に教わってといわれて彼に弟子入りすることになり、そこで腕を磨くことになるのである。そのときに出会ったのが、wakkyなどの当時強いといわれていた中級者であった。(当時wakkyはランク8)
 当時私はTAITAIにも教わったしランクつけるかぁとか思って、自己申告で3でゲームを始めた。ちなみにこのころの知り合いはZEROと呼ぶ人が多い。shun-7upは今でも玉に会うとzeroと呼んでくれる。こう呼んでくれる親しい友達は彼だけである。まだこのころはアフロという名前は存在していない。この頃から先輩と私たちの実力は徐々に逆転していった。同級生でIRCに行く人間は私だけだったが私が同級生の中で一番覚えが悪いのでなぜか自分が持ち帰った情報で同級生のほうが強くなると言う最低な状態であった。そして私はある程度の実力が付いたことに自信をもち、もんもりで昼間はホストをしてROR、夜は学内対決というRORづけで全く研究をしない生活を始めるのである。当時昼間からヘッドホンでなくスピーカーでRORをやっていた私は、隣の研究室からカキンカキンうるさいといわれたり、RORをやっている最中に教授がきて「楽しそうだね?」といわれて「はい、楽しいですよ」といってそのままRORをやりつづける馬鹿者であった。そんな中ある人の勘違いから次の出会いが生まれることになった。

第4章 〜#雑部屋時代〜

 もんもり全盛期の中、ローカルチャンネルもどんどん増えていった。またIRCベースの盛り上がりの他にIGZ(インターネットゲーミングゾーン)やDowangoなどの独自サーバによる物もあった、ローカルで言えば当時AOEパークやどんぐり、雑部屋、後にもんもりと二分する勢力になるろーまなどいろいろなチャンネルがタケノコのように増えた時代でもあった。競技人口的にも一時ピークな頃といっても差し支えがないだろう。そんな中チャンネル同士の交流戦やオリジナルのトーナメント大会などのいろいろなイベントがでてきた。また、この頃から管理者とプレイヤーの間での確執などがでてきたりする訳である。それが本格的に表面化するのはまだ先の話ではあるのだが・・・・
 そんな中私はもんもりで日常的に昼間にゲームを干すようになった。最初の頃私はそのころはまだ別にランク分けでチームを決めたりする時代でもなく、9割以上のゲームがCDによるチーム分けであったので他のプレイヤーの凄さなども一部を除いて知るよしがなかった。ある日ゲームをしているとゲーム待機画面が妙にざわついてるのが分かった。そのときは知らなかったのだがそのゲームにはファーレンとミルが入っていたのである。そのころTAITAIしか知らなかった私は有象無象としてとらえていた。ちなみにファーレンと最初にやったゲームで私は馬鹿なのでこいつなかなかヤルナ!とか思っていたのである・・・最後つぶされてヤルナもへったくれもない物なのではあるが・・・ファーレンとのファーストコンタクトはこんな物で会ったがこのファーレンと出会いが別の意味で私のROR人生を変えていくことになる。それからもファーレンとミルはよく昼間のゲームで一緒にプレイをしていた3回目には私もどういう人かと言うことが分かってきて、それなりに緊張や尊敬のまなざしをむけていたものである。当時はセコイ人間が多くてファーレンやミルと同じチームになりたいがために後出し気味にラグを装ってCDをだして延々とチームが決まらないという事態もたまにあった。
 そんなある日、私がいつものように昼間ゲームをして反省会をしていると一人の人が声をかけてきた。「ZEROさん(まだ当時はZEROと呼ばれていた)今度の大会がんばろうね!!」といきなりMIRAに声をかけられた私は、まったく身に覚えのない事に驚きながら「何のことでしょう?大会ってあるんですか?」って聞くと「あれ、ああそうだZOROだ勘違いしたごめんごめん」といわれこいつアホカと思ったのは内緒であるがそのときにMIRAに#雑部屋って言うところで大会があるということと楽しいから一度遊びに来たら?といわれて雑部屋に遊びに行くことにした。そこで私にとってのある意味ゲームとは関係ない事でのIRC史上最大のでき事が起こった。初めて#雑部屋にいった私はバンブーという雑部屋の人に話しかけられここに来た経緯を話した。そのころの雑部屋はものすごく会話がおおくゲームも多い活発なチャンネルであった。またローカルチャンネルとしてはその当時fa-renを筆頭として最強クラスの集まりでもあった。雑部屋に行った初日初めて入ったにもかかわらず他の人が温かく迎えてくれたのとfa-renとも結構ゲームをしていたので覚えていてくれていたのである程度会話が弾んで楽しいひとときを過ごして寝ようとしたときであった。私が「楽しかったですまた遊びに来ますね、お休み〜」と言ったあと各々がお休みといってるなかPKKKが最後に「おやすみアフロ」と一言・・・そこからすべてが始まった。ファーレンの「なんでアフロやねん!」ってつっこみから始まりPKKKの「いやぁAFTERZEROってながったらしいし呼びにくいから短縮した!!最初の2文字と最後の2文字でAFROやん!!」っていうその応答にチャンネル中が爆笑のうずとなり。#雑部屋にいって1日目にしてなぜかアフロというなまえでみんなに覚えられることとなった。ファーレンは30分ぐらいリアルで笑い続けていたらしい・・・・私は元々ハードボイルド志向で渋めのキャラを目指していたのであるが、このアフロという名前のせいでそれはかなわぬ事となりました・・・・ファーレン曰くZEROって呼び名だったら絶対チャンネルのみんなに覚えてもらえないしなじめなかったよ!!絶対アフロっていわれて得してるっていわれてまぁそんなもんかなぁと思いつつカッコワル!と当時は思っていました。
 ここで少し雑部屋について話してみよう雑部屋はもともとwebにあったAOEのお部屋というHPのWEBCHATでAOEをするところから始まったグループである。それがIRCに移行してそのままRORチャンネルになった。当時はファーレンを筆頭としてカオセルやバカボコなどの強豪プレイヤーの多いチャンネルでした。またもんもりなどとゲーム性もかなり違い、勝ち負けもだがおもしろさを求める柔軟性あるプレイスタイルでした。斧やNRを楽しみながらできたのはここに居たときだけだと思っています。農民が一人になっても意地になって逃げてゲームを終わらせないとかそういう楽しみ方ができるチャンネルでした。そういう楽しいゲームが好きだった私は雑部屋で長くゲームをすることになります。
 この当時の私はどこでゲームをしても最下級戦士でした。雑部屋でも私はつねにおみそでいかに周りに迷惑をかけないで戦うか、と思いながら強い味方のサポートをする戦いを身につけようとしていきます。いわゆる狩りタイプを目指すことになります。そしてここで私は#雑部屋で出会ったKeiに半分強制的に弟子入りすることになります。毎日h2hの相手をしてもらいました。Keiは元々知り合いが多く私にいろいろな人とのh2hの機会を与えてくれました。これが後にすごく大きな財産になっていることが分かります。当時フェニキアを使っていた私はPKKKとフェニvs朝鮮でh2hをして海つきフェニで朝鮮の強弓投石に敗れました。その当時私は強弓って本当につえーとか馬鹿なことを思っていた記憶があります。そこでも私はh2hを30連敗しています。今から思うと何をやっても勝てる気がしない時代でした。この頃からでしょうか漢が使用禁止になりはじめたのが・・・まだこの頃はヒッタ兵船の凶悪性についてはそれほど言われない和やかな時代でした。
 私が雑で遊んでいるこの頃パブリック界に大きな動きが現れます。#ponpokoの設立でした。当初もんもりですべての人がゲームをしていたのですが、人口増大により初心者と上級者の実力の隔たりが多くなり、また人口増大により知り合いでない人同士がゲームをすることも多くなりもんもりは雰囲気が少し崩れ始めたころでもありました。そこでGOMやベラなどが中心になり初心者用チャンネルとしての#ponpokoが結成された分けです。それとほぼ時を同じくして、もっとレベルの高いゲームをやりたいというニーズから#ror_expartという上級チャンネルが設立されます。ただしこちらは完全クローズな招待者のみしか入れない完全なローカルチャンネルでした。そして無機質にゲームをするのがいやだという人たちがどんどん増えてチャット中心の#ろーまが少しずつ規模を大きくしていくことになります。この時代がもんもり ぽんぽこ ろーまの三大パブリックの時代となります。現在最上級にいるランカーの多くはこの時代に始めた人がほとんどです。この後ponpokoは初心者チャンネルならではの問題をかかえそして最後はある事件を引き起こすことになります。

第5章 〜もんもり ろーま ぽんぽこ時代〜

 この時期は競技人口が増えた事によるいろいろな問題が表面化した時代でした。もんもり一巨頭時代がくずれ、下位ランカーはぽんぽこへ、ゲームだけのスタイルがいやなチャット中心のプレイヤーはろーまへ移行して行きもんもりはどんどん寂れる傾向にあった。その人の移り変わりの中で、元々ろーまにいる人たちはもんもりからの移住者をもんもらーといってあまり歓迎はしなかった。また、ぽんぽこは初心者を装った狩人たちの横行が目立つようになり運営上の岐路に立つことになる。ただしこの現象は3党体制が長らく続いた結果の事ではあるのだが・・・このころ畑バグと象徴バグが発見され使用の是非についてもめることになる。最終的には後にマイクロソフトからまさかの1.0aパッチが発表されたことによってこのバグは解決する。畑バグは畑が無限になるというある意味内政バランスを崩すものでした。象徴バグの方は使用すると象徴のHPが全開するかわりに年月も2000年に戻るというある意味お笑いのようなバグでした。実践で象徴バグを使用した人を見たことは私はありませんが・・・
 私はこの頃、雑部屋からさらなる別のチャンネル#金馬の会と#すしに所属することになる。#金馬の会は当時delpi、\cat\、cat46、HUNHUN、などの強豪プレイヤーが所属する東北大関係者がいるチャンネルでした、そこに紹介で入った私はもんもりでTB戦をよくするようになります。味方が強い中でのチーム戦は楽しい物であり。また圧倒的な実力差からもあり金馬の会の名の通り4国金馬コンボで勝つなどというなめた戦いをしていました。また同じコンセプトで弓パオ隊が結成され4国で弓象を出して弓象の強さを世に知らしめようという計画がdelpiの案で実行に移されました。あとから気がついた事ですが象弓がでる文明はほぼ象弓にボーナスがあります。カル、ヒッタ、ペル、エジ、フェニこの5国の中から文明を選ぶことになるわけですが鉄に入ると象弓しか出さないといいつつもやばくなるとふつうに装甲象やヒッタ重投石をだして逆転するというえぐい内容でした・・・またすしはBuleNoteやMIRA、GEN_dowa、nappaなどのこれも別次元でレベルの高い集団でここもTB主体のゲームが多かった。このときに私はTB戦ばかりをして勝率をかなり稼ぎ、名前がもともと特徴的であるという事実とあいまってよく分からないひとたちには味方が強いのに私が強いと勘違いする人たちがでてきます。ついでにいうと自分自身も味方が強いのに強くなったと勘違いしてゲームしてました。その当時楽しいゲームをしたいという目的で募集に私より強い人募集とか書いて一時期募集していたのがその現れかもしれません。実際あなた弱いからだめといってゲームから追い出したことも・・・その当時の私のスタイルはフェニでチャリを少し出して狩ってあとはぬくって象をだすというある意味今と全然かわらないスタイルであったりします。またこの時代は上級者チャンネルもそれなりに機能した時代でもありました。GOMの推奨によってつくられた#ror_expartはTAITAIやfa-renなどが初期はゲームをし、またその次の時期にはHUNHUNがホストとなり中上級者ゲームを行っていました。そして#ror_expartは別の意味で崩壊の方向へ走ります。上級者の絶対数の少なさからのゲーム不足、それを補うための低ランカーの補充、それによって起こるゲームレベルの低下による上級者のさらなるゲーム離れ、そして最後にチャンネルを引っ張っていたホストHUNHUNのror離脱により#ror_expartは衰退への道を歩むことになります。この時代でもまだ進化時間事態はそんなに早い物ではありませんでした。この辺の時代までは上級者の中ではあえて時間を早めないで戦術戦略レベルで戦うのが楽しいという暗黙の了解がある時代でした。この前提は後にでてくるSHIGUMA式進化によって覆されることとなります。
 また、この時代にiwango主催の10万円の賞金がかかった大会が開かれることになります。これは別の意味でのRORのプレイスタイルの開発につながります。漢、ヒッタ何でもありで純粋に勝利を目指すときRORはいったいどういう方向へ向かうのかそれの一つの回答がでるイベントでもありました。この頃ファーレン、TAITAI、またこのあたりにPsychsなど、あとはcats46やdelpiなども大会に出場して上位を獲得しています。また大学別の対抗リーグなども企画されある意味大会などの第2次最盛期を迎えたともいえるでしょう。
 次にぽんぽこに目を移すと最初は初心者チャンネルとして機能していますが人口が肥大するにつれて内部で育った人の行き場が問題となります。生粋にぽんぽこで育った人たちは当然強くなってももんもりに移行するのをいやがりそれが重なると本来的なチャンネルの意義を満たさなくなります。ここで管理人達はある意味血の粛清的な行為にでて該当者をbanなどの強硬な手段で追い出す手法にでます。ここに管理者の悲哀があります。元々は初心者を育てるための教育機関としての機能をもとめてチャンネルを設立してもJOINする人がすべからくそれを理解するわけではなく、又一人一人に説明する時間は管理人にはないというジレンマがそれです。又管理人自体はそのチャンネルでのプレイヤーで無いことがお互いの理解を妨げ悪循環となります。その対立の結果ponpokoから飛び出しぽむぽこという新たな管理をしないという前提でつくられたチャンネルができますが、長くは続きません。そしてponpokoの現状を打開するために新たにbunbukuが設立の運びになります。この三党体制の末期になるとすでにmonmoriは外人からの荒らしなどの理由によりほぼ機能しなくなり、次にbunbuku、ponpoko、ろーまの三党体制に移行していくこととなります。更に歴史の裏ではror_expartも寂れて消えていく運命にありました。このころを境に一次のROR離れが始まります。もんもりの終焉に際してそのままRORを引退したり、また季節的な物もありました(卒業など)。それらの理由によりTAITAIランクが通用した時代が過ぎろーまやぽんぽこからでてきた若者の手によってRORの歴史は進んでいくこととなります。そしてこれからの歴史は常に上位チャンネルから下位チャンネルへの人の移動の歴史となります。

第6章 〜ぶんぶく ぽんぽこ ろーま時代そして・・・〜

 この時代はあまり長く続きませんでした。この3党体制になってしばらくしてぽんぽこが機能しなくなり新たな初心者チャンネルとして#へっぽこが設立されます。程なくして#脱へっぽこがうまれ、それより少し遅れて#RORORなども設立されます。この頃RORのプレイスタイルを変換する一つのきっかけとなる進化方式が生み出されます。いわゆるSIGUMA式といわれる方式です。これは農民を削り漁船を多めにして13分台に青銅に入りそこからチャリを5個回して勝負つける方法でした。今まで進化時間についてそれほど追求される傾向では無かったのですが、この頃から一気に戦術戦略メインから速度と量の時代への移り変わりを見て取ることができます。より早くより多くを目指しチャリの狩りあいの歴史がここに始まります。この頃にkonanやMisty、Yu-kiなどの新しい世代の強者が生まれてきます。ぽんぽこやろーまが消滅しへっぽことぶんぶく、RORORがメインになりつつある頃、ローカルチャンネルからなるTB戦がまたしても花さく時代になります。#愛人や#殉教、#yousayなどを筆頭に次々といろいろなグループによるTBが干されました。このころ殉教からでてきた強者がpeaceでした。この時代になると平均進化時間が早くなり前時代の戦闘方法が通用しにくくなり、かつての上級者が中級者と言われる時代になりました。その中でも最強クラスの地位を譲らなかったFa-renやShigureなどはやはり特筆に値するでしょう。
 この頃私は、チャリ全盛の時代に嫌気がさし一度ローカルメインにゲームをする事になります。また同時にaokの発売によりRORの人口が本格的な衰退の気配を見せるようになります。そのローカルでゲームをする事で私は初めて自分より弱い人ばかりのゲームをする事になります。今まで自分が強いと思っていたのはいかに味方が強かったかからかそこで決定的に知ることになります。結局自分自身でのゲームを決定する力がなければ荒らすだけでは絶対に勝てないという事実に気がつきローマを使う事にして徹底的にローマを特訓しました。そのころ最強と歌われていたサイクスローマを学ぼうとサイクスに師事します。そこで自分でゲームを決めると言うことがどういう事かと言うことを自分自身で学ぶことができました。それによって自分自身の戦い方が180度変換することになります。ちょうどその頃Misty主催の4v4大会が開かれ私はdir,Misty,shuriと共に大会にでることになります。その大会までの間ミスティとh2hで特訓をするのですが結局20回ほどやって一度も勝つことはありませんでした。20回とも青銅入りにはゲームが決まって負けていた記憶があります。大会の方は結果的に優勝することになりましたが、私はすべてのゲームで壊滅という全く勝利に貢献しない完全なおみそ状態で少し悲しかった記憶があります。

第7章 〜ROROR 脱へっぽこ時代〜

 先の時代の後半に設立した#RORORは是非はともかくコンセプト的にランク登録制で平等なチーム分けをと言う点では革新的な提案でした。特に楽しいゲームをしたいという人にとってバランスがよくなると言うことはうれしい事でした。できた当初のランク分けはすべて自己申請でまだランクAAは無い時代でした。最初の頃のゲームはホストが手動でランクをみてチーム分けをするというホストにかなり負担がかかる形式でした。またランク自体も自己申請なのでかなりアバウトでしたが、規模が小さかったためにそれなりに機能していました。しかし特異的なランクシステムによりなかなかC以下の下位のランカーはゲームに参加しずらい現状がありました。さらにSSランカーは点数差による負担が大きくゲームに参加しづらい状態となります。へっぽこ系に目を移すとへっぽこ系はbunbukuの衰退にともないまたしても慢性的な狩りや卒業といった問題を抱えきれずにいました。特へっぽこなどの設立により打開をはかりますが、人は常に下に流れる習性をもつようでその流れは変わらず最終的に脱へっぽこは解放されることになります。またこの頃からにわかにチートが問題となってきます。そのためへっぽこ系は独自に開発した1.0bパッチを公開しますが、著作権などの問題上物議を醸し出します。最終的に1.0xが発表されますが、RORORとの連動もとれず、1.0aとの混在という形で曖昧に使用されることとなります。この問題はまた後で再燃する事となります。そしてこのX騒ぎのあと、へっぽこ系は事実上管理されない状態での運営となっていきます。
 私は基本的にもんもり時代からのプレイヤーなので上位下位に分けてゲームすることに抵抗があったため、へっぽこ系にはほとんど足を踏み入れたことがありませんでした。たまにJackなどに相談を持ちかけられて話を聞く程度だったので脱が具体的にどういう状態かは知らずにRORORの運営を手伝いながらゲームをする毎日でした。ROROR創設初期のころ私の家でオフ会がありファーレンのプレイを見る機会が久々にあったのですが、そのときの内容は自分では絶対こんな風にはなれないという内容でした。ほぼ完全陸進化に近いシュメールでSランクのパンナ海付きミノアを押さえつつAランカーエジを相手にして結局パンナから先手をとったまま再構築させるきっかけを与えずしかもエジプトを相手にして35分鉄という衝撃的な内容でした。ゲーム内で有限な時間をここまで細かく管理出来るものなんだなぁと感心したものでした。微妙に部隊を戻す時間や部隊を移動する時間を利用して内政をし、ナンバリングを利用してすぐさま前線に戻る様はまさに鬼神のだなぁと思ったものです。伊達にRORでh2h無敗な訳ではないんだと改めて感心したものです。

第8章 〜今現在まで〜

 脱が解放されてからしばらくして、ファーレンの主導下のもと#えじぷとという上級チャンネルが設立されたが、ファーレン自身のROR離れなどが原因でホスト不足によりやはり衰退してしまう。上級者のニーズを満たす為にえじぷとが廃れた後yousayの面々が主導で(特にdelpi、kamui)#yousayaceが設立されることになる。前述の二人の強烈なホスト能力により一時期は恐ろしいほど盛んに上級ゲームが行われることになるが、二人が別ゲームに行くやいなや元の木阿弥に戻ることになる。このことからも上位チャンネルの設立にはかなり主導的なホストの存在が不可欠ということが明らかだと思われる。その点特へっぽこがへっぽこ系の上位チャンネルとして設立されたあまりふるわなかった原因と思われる。しばらくして、RORORにも初心者がゲームをしづらいということでROROR初心者館ができ初心者の受け口が出来る。この時点で私自身はこのチャンネルを作ること自体に反対であったが、現在RORORにおいてC,Dランカーが増えたのは初心者館の功績といわざるを得ない。その点色々な問題点はさしおいても成功だったのではないだろうか。脱が道具禁止のまま流れる中、当然の帰結というべきかもしれないが、RORORではより早くと言う考えはついに棍棒、斧の次元までたどり着くことになる。この件の是非についてもモラル論ゲーム論ともにいろいろな議論がされてきたがどちらかといえば容認の方向に動きつつあると思われる。実際のところ境界がはっきりしないルールをどう扱うかは永遠の課題であろう。勝つことと楽しさこのトレードオフをどう見いだすかは時代や場所によって常に違うものだから、どれがよいわるいよりもその時々にどれがマッチしていたかそれだけの問題それだけの話である。
 このころ私はAAからSに上がり#ROROR自主ゼミ室を開いてそこでまったりしようと思っていましたが。チャンネルに半分以上ひやかしの私より高ランカーがいて、あまりまったり出来ない状態になってしまいました。本来的にこの自主ゼミ室は自分と同レベルか少し下の人と3v3でもやりながら戦略論とか語れれば楽しいかな程度で始めたのですが、世の中のニーズと私のやりたいことはマッチしていなかったらしく人はいましたがgasuに渡して自分は主導権を最終的に放棄してしまいました。その後某ローカルにこもり某人たちとTBをし続ける日々を送り現在にいたる。

終章 〜まとめ〜

 思えば飽きっぽい私が、4年以上も同じゲームをしていること自体奇跡的なことであった。しかし結局は、ゲームの魅力でもあるがそれに関わる人たちとの出会いのきっかけだったと思う。RORはほかのゲームに比べて過去にやっていた人が復帰する事が多いと思える。それはゲームの魅力でもあるしあるいみ昔の懐かしい面々にまた会うために戻ってきてるのでは無いだろうか?そう考えると所詮はコミュニケーションの手段としてのゲームであるのでそれ自体でもめたりすることは馬鹿馬鹿しいと思える。この文章を読んできてもらった方にはわかると思うがゲームを取り巻く環境はめまぐるしいほどに変化している。その中で結論づけられてきたルールや慣習にはそれなりの教訓が込められてここまで来たといえる。チャンネルの運営方針やルールなどがどういう経緯で変わってきたかなどを少しでもこの文章から感じ取ってもらえば幸いである。ここに今まで私を指導してくれた人々に感謝して筆を置きたいと思います。