実績

 最近になって小中高などで勉強する意味という物を考えてみた。

 自分がマクロ的に考えると教育っていうのは別に個々がしあわせになることを目標としているわけでは無いと思っている。あくまで社会の人材ニーズを反映していくものでは無いのだろうか?そもそも社会的な人材ニーズが無ければ教育理念なんて作れるのか?

 国策としての教育は国としての競争に生き残っていくための100年の計になるはずで(今は国家百年ってこたぁなくもっと短いだろうけど)少なくとも今の場当たり的な迷走を見ていると既に国としてのビジョンが作りがたい位置まで日本が来ているのだとつくづく思う。

 より富国の有り余る需要を当てにし物づくりを基本として良い物を盲目的につくれば良い時代が終わった今その先にどこへ向かうかを明確にしないとそもそも教育だけ切り離して考えることは無理だと思うので当分教育現場は荒れっぱなしだろうと思う。

 これは私の中の見解で何を意味するかというと、個々のレベルに置いては社会的な目標を失った教育の指針自体は現状意味を持たないということだ。簡単にいえば習っている内容自体の意味が薄れているということ、そりゃ目標がはっきりしないで迷走してるんだから当たり前の話。

 そのこと自体は既に私たちが学生時代から言えたことなんだと思う。だとすると何をもってそれに個人的に意味をもたせるかという話になる。今振り返って思えば、目標に対するより効率的な学習に関するシミュレーション的要素が一番大きいのでは無いだろうか?

 青年になるまでの間、明確に目標をもって何かを出来ることというのはなかなか無い。それは現在裕福な日本の過保護のせいかもしれないがそれはさておき、目標を決めて計画をつくり実行してその結果からのフィードバックから再度何かを行う。ということの予行演習をしてきたのではないだろうか?

 実際の行いそのものはともかくやりたいことをやるために必要な計画能力と実行能力の訓練が現在学校で得られる最高の経験でないのかと思う。そう言う意味で受験という競争を真っ向から乗り切った人間は競争の仕方を知っている。善し悪しは別としてその方面で必要な事があればやり方をしっているというのは大きな財産だと思う。

 今自分が一番思うのはその点なのだ。本当に必要なことややりたいことが出来たときそれを真っ向からこなすための計画がまず立てられない。それは何故かといえば限界まで自分を追い込んで何かをしていないため能力が不明だからだ。自分がどの位できるかという実績を積み重ねていないとある程度大きな事をやるための目処が自分自身でつけられない。

 私は学校の勉強等は無意味とおもっていたのでかわす事ばかりに夢中だった。そのため真っ向から何かに向かってまっすぐ物を解決する能力が著しく低い。そのかわりにうさんくさくかわす能力があほみたいに高くはたしかになっているのだがそればっかりはやってられない。その辺のバランスが著しく悪い。そう言う意味でもっと真っ向から戦っていても良かったと今頃思う。