対価

 ネットの普及で価格比較が非常に簡単になったことで今まであった消費者の情報格差が非常に狭まった。昔は安く物を買おうとすれば都会にでるなりなんだりしないと地方では入手する術がなかった。高校生のころ日本橋にshin16とパソコンを買いに行って安い物は無いかと物色していたのが懐かしい。今では通信販売でも買いに行ってもそれほど値段は変わらないように思う。

 個人としてはまあ悪いことは無いのだけれど企業向けの物販は正直しゃれにならない状態になっている。昔は(PC-98時代)パソコンなどは単価も高かったし利益率も非常に高かっただろう。その当時は物品を売る利益だけで設置費や配達費なども十分ペイするだけの物だった。しかしこれだけ家電屋などで廉価に出回ると今までの仕入れルートの場合、仕入れた時点で家電屋よりも高いということが増えてきた。お客様には高いと怒られる上に設置費は今までの慣行からいただけないというひどい有様だ。

 それはさておき、インターネットによる知識の安価な氾濫でノウハウに対して対価を支払う意識がさらに低くなったように思える。「専門店などでノウハウだけをただ聞きして実際の商品は安価な店で買う」という行為が当たり前のようにまかり通る時代になっている。個人レベルでは確かに得をしているかもしれないが専門店は知識を漏出するだけでたちゆかなくなっていくことは目に見えている。いわゆる囚人のジレンマで最終的に社会全体としてみたときの利益は個人の最大利益を求めると最低になるというのが顕著に見えるのは気のせいだろうか?

 取引をするときWin-Lose型は簡単で魅力的だ、本来は全体としての利益を上げたい場合はWin-Win型が一番良いに決まっている。確かに難しい事ではあるが、世の中がゼロサムゲームだとしたら文明は発達していない。

 極論を言えば学校のテストなどはその典型では無いだろうか?個人としての成績を評価しなくてはならないのは理解できるがクラスという単位で協力して何かをする事に評価が与えられる事は課外活動的な物だけでメインではない。仮にテストの場で人と人が協力して全員が満点をとるというのは現在ではカンニングといわれるが良い意味で全員が協力しあって全員が満点を取ることは本来の目的から言えば良いことではないのか?人と協力して何かを作り上げるための土壌が果たして今の日本にあるのだろうか?個々の成績を合計した物が全体の成績というのではあまりにも悲しい。

 物を購入したりサービスを受けるというのは対価を伴う。対価というのはその物に対する評価である。金額というのは評価方法の一面にしかすぎない。ある場合は金銭でなく尊敬の念や感謝の念が対価になる場合もあるだろう。お金が一番わかりやすいだけにすぎない。安ければ安いほど良いというのは相手に対する評価は低ければ低いほど良いと言っているのと同じではないだろうか?

 少なくとも自分は相手の立場になって物を考えて自分がどちら側であったとしても満足出来る状態を作れるように努力したいと思う。