墓参り

 去年のお盆に、盛岡で友達の墓参りにつきあってから、節目には墓参りをするようになった。それまでは、そんな気持ちは少しもわき上がらなかったのだけれど何となく。

 友達の墓参りにつきあう体験もなかなか無いと思うが、自分もやらなきゃと思ったのは手を合わすと何故か心が落ち着いたから。

 マメにというわけにはいかないけれど、半年に一回ぐらいはと思っている。親には、行くだけじゃなく掃除もしろといわれている、来年のお盆は時間を見てそうしよう。

 別に宗教的にどうこうというのは私には無いけれど、先祖をダシにして自分自身と向き合う時間を作っているような感じだろうか。意識するしないに関わらず、過去からの素晴らしい偶然の積み重ねで自分はここにいることを再確認できる場でもある。

 お墓は、自分のルーツを表しているし、かつ自分の行き先も表している。

 今日墓を参った後、墓地をブラブラして遠い昔のことを思い出した。死ぬということを夜考える中2病、そして怖くなって寝られなくなる。死ぬ事への潜在的な恐怖と一度はみんな向き合うのだろう。その時、私は女は子供を残せるけれど、男は何を残せるのだろうと思っていた。結局結論は名を残すというべたべたな事を思った。

 核兵器によって、物理的な戦争が難しくなり、戦争での英雄という偶像が無くなって歴史に名を残すのが難しくなったように思う。経済的成功や名声は既存のシステムの上にあってシステムを乗り越えて名を残す人たちは、私が生きている間にでてくるのだろうか。